・禁酒と麦茶





「お酒が止められないんです」

中年の男性が沈黙を破り最初に出した一言がそれだった。

顔から出る汗をハンカチで拭き、また口を閉ざす。

どこかおどおどしている態度、見た目の割りに落ち着きがない。

よれよれのこげ茶色のスーツに茜色のネクタイ。

身なりからは高役職についているとは思えなかった。

白髪混じりで額にはしわが入っている。その額をさっきから必死にハンカチで拭いていた。

中年の男の名を藤原雄太といった。

雄太の正面に一人の若い男がいる。

若い男は雄太の行動をじっと見つめている。

若い男はその歳を感じさせないほど冷静で落ち着きがあった。

その場は見た目と違う態度のギャップがあり、他の人から見ると異質だろう。

若い男は雄太から話を聴くのが仕事だった。

雄太が次に何か話すのをじっと待っていたが、ずっと黙っているので返した。

「お酒を止めなければいけない状況なのですか?」

雄太は聞かれたことにほっとしたのか急に落ち着いた雰囲気になった。

「肝臓が悪くなっているというのもあるんです。

 でも一番の理由としては……」

そこでつまる。すっと話せる内容ではないようだ。

若い男は雄太が喋りだすまでじっと待っていた。

数分経つと雄太は何かを決心したらしく、語りだした。

「白川先生、私はお酒を飲むと暴力を振るってしまうんです。

 それで妻や息子にも何回も殴る蹴るの暴行を働いてしまいました。

 だから止めたくて止めたくて…。でも止められないんです!」

白川先生と呼ばれた若い男は立ち上がると冷蔵庫へ向かい、中から冷えた麦茶を出した。

「飲み物を出さずにすみませんでした。

 いつもは手伝いがいるのですが今日は大学に行ってるらしくいないんですよ。

 今日はまた暑い日ですね。冷房がぜんぜん効かない」

「はぁ…」

雄太は緊張感を持って話したのにその対応が流されたのであっけにとられた。

白川はそんなことを気にすることなく、ガラスコップに麦茶をついでいた。

そして2つのガラスコップを持って両者に挟まれている机に置くと話を戻した。

「それで、何故止められないとお思いですか?」

出された麦茶を飲み干すと雄太はまた話し出した。

「つい買ってしまうんです。イライラする時はお酒を飲まないと潰れてしまいそうで…。

 お酒を飲んだら楽になるんです。仕事のことや辛かったことなんて忘れられる。

 でもそれではいけないと思って一度禁酒したんです。

 そしたらストレスが溜まってしまって…、禁酒で我慢するのにイライラするのと

 仕事などのストレスでイライラするのが重なってしまったんです。

 もう耐えられませんでした。禁酒を止めました。私には止められないんです」

「でも止めないと暴力を振るってしまう」

「そうなんです、止めないと殴ってしまうんです…」

「奥さんと息子さんがいるんですよね。奥さんと息子さんはどう思っているのでしょう?」

「妻はずっと我慢してくれているんです。

 暴力沙汰になっても警察を呼ばずで…。ずっと耐えています。

 禁酒の手伝いをしてくれていたこともありました。

 でもストレスが溜まって気が狂った私を見たら無理に禁酒することを勧められないらしく

 私が耐えればいいって…。

 そんな妻のために私は止めたいんですよ…。お願いします、白川先生…」

「専門の医者には行ったのですか?」

「行きました。禁酒のためのカウンセリングとか受けました。

 ストレス発散になるような趣味を持ってみようとか

 他にも色々言われましたがどれも実現することが出来ませんでした」

「どうして実現することができなかったと思いますか?」

「私は今の仕事には必死でありつけたんです。

 その仕事を放って趣味の時間を作ることなんかできません」

「転職しようとか思ったことはありますか?」

「ありました。でもこの歳ですし……、とにかく転職は厳しいんです。

 今の仕事だから家族が養えるんです」

白川は考え込んだ。

今の仕事がストレスを与えている。だからお酒にも手を出してしまう。

ストレスを発散するための時間作りも仕事のせいで潰れてしまっている。

仕事を変えるのが一つの良い方法だろう。

でも彼は無理に勧めない。彼の仕事は“聴くこと”だった。

「状況はなんとなくわかりました。

 色々話していただきましたが藤原さんはどうしたいと思っています?」

「やはり、家庭を守るためお酒を止めたいですね…」

「藤原さんはストレスのたまる仕事を頑張って家族を養っているじゃないですか。

 立派に守っていると言うこともできると思いますよ。

 だから奥さんも暴力に耐えているのかもしれない。

 でもその状況は嫌なんですね」

「嫌ですね…。これ以上泣かせることをしたくありません」

「私はね、その気持ちがあれば

 藤原さんの家族にとって一番良い方法が取れるんじゃないかなと思いますよ。

 あ、麦茶入れましょう。かなり話したので渇いたでしょう」

そう言って白川はまた冷蔵庫に向かい麦茶を取り出した。

そしてガラスコップに麦茶をつぎながら話す。

「藤原さんは何が一番大事か見えていると思いますよ。

 大事なものを守ってください」

柔らかい声で話す。藤原雄太は安堵した顔になった。

「白川先生、あなたは不思議な人だ。今日始めて会ったばかりなのにどうして。

 あなたに話したらなんだかすっとしました。癒し屋は評判どおりですかな」

白川は笑いながら言った。

「私は先生と呼ばれる人間じゃないですよ」

雄太は机に30万円を置いた。

「先生、聴いてもらった料金です。どうかお納めください」

白川は机に出されたお札を見て慌てた。

「これは多すぎですよ、あなたにとってどれくらい有意義な時間であったかでいいんです。

 私はただ聴いていただけで何もしてませんよ」

雄太は白川が言ったことに首を横に振り、机に置いたお金を見向きもしなかった。

「先生、どうかそのまま受け取ってください。その代わり…

 私のバカな話を聴いてくれますか?」

セミの鳴き声がしない暑い日だった。